北朝鮮による拉致事件

<不明10人生存情報出ず―――数人に「新事実」>
やっぱりね〜、って諦めてしまうわけにはいかない。その「新事実」って、なんだよ。外交が「飴と鞭」を使いわけることが必要なのはわかった。が、日本の外交で、鞭を使う事ってあるんだろうか?

折々のうた大岡信

「冷まじきピラニア釣れば哭きにけり」大原千鶴子

『陽炎の琴』(平成16)所収。



作者は池坊の華道正教授だそうである。
「冷まじき」を「すさまじき」と詠ませてしまうのは、なんか強引な気がしなくもないけれど。お花の先生は、気が強い人が多いのかな。


ということで『花泉』が届いた。「専正池坊」とあるが、普通耳にする「池坊」とは違うのだろうか? 家元のお名前が「佐藤研道」とある。
手にして、いつもと紙質が違うことに気がついた。何でだろう? カラーページの印刷の質は落ちてはいない。紙の値段を落としたわけではなさそうだ。読んで、納得。
ペーパーアートのページがある。講師は石井桓祐さん。綴じ込み付録で、クラフトが印刷されている。なかなか楽しそうである。花を生けるということは、器を楽しむということもあるのだな。

<POWER TALK「さぁ、もっと根っこを考えよう(その四)」>青山繁晴
ソ連に国民が抑留され人権が回復されなかった責任は、外務省にある。満州に開拓民やその幼子を置き去りにしたまま関東軍(旧日本陸軍満州に展開した部隊)が逃げ帰った責任は、もちろん帝国陸軍にある。沖縄の日本軍が住民を護るどころか住民を盾にして、アメリカ軍のビラを拾っただけで少女や少年をスパイとして拷問し虐殺した責任は、もちろん戦前の軍司令官にある。国民の責任じゃないし、ましてや戦後の国民とは関係ない」
そんな意識が、わたし自身を含めた日本国民にないだろうか。
わたしは戦後の生まれだが、脈々と続く日本国民の罪として、受け止めている。


以前、世間には小泉首相が政策を丸投げしているという批評があった。その時、わたしは青山さんのサイトに「国民の方が、政治を政治家に丸投げしているような気になってきました」と書き込んだことがある。たかが一有権者が、何をしようとも責任は問われないという意識が政治の腐敗を増長させているのではないのか。そういった「たかが」という意識はは、誰の心の片隅にも存在している。上に立つ者にも、下にある者にも。