書くということ

華道はやったこともない。興味がないわけじゃないが
「なんとか教室」というのが、書道と珠算で辟易してしまったせいもある。
向上心がなかった、とも言えようか。

そういうわたしが何故この機関誌を読んでいるのか。
それは、文章力というものにまつわる話となる。


専正池坊機関誌

花泉』9月号

戦勝国アメリカが敗戦国ニッポンにもたらした民主主義をようやくに超えて、天皇制と調和しつつ主権者がひとりひとり自立する、自前の民主主義を造りあげていきたい。」


「本題は、ではなぜ、誘拐されテロ国家に隠されている自国民の存在を知りながら、首相がその国民を置き去りにテロ国家を堂々と援助しようとしているのを知りながら、同じ国民が投票所に行くという簡単な行動すら取らないで無関心でいられるのか、ということにある。」


「国民が、やすやすと同じ国民を見捨て、痛みもほんとうは感じていない。」


(by<POWER TALK青山繁晴


自分さえよければいいという、間違った自立心が蔓延っているのだろうか。
他人に関わらない、ということが個人主義だと思い込んでいるのだろうか。

共同通信社の記者であった青山氏が、現在、代表取締役社長でもある「独立総合研究所」の主任研究員として書く文章、または、雑誌に執筆される文章と、どのように書き分けているのだろうか。それを見てみたかった。そして、本当は小説を書きたいんだという氏の、いつかは書き上げられるであろう小説を待っているのである。
(超多忙で、そんなヒマはなさそうだけれど)