アニメーション映画特集

群馬会館で、行われていたイベント「映画シリーズ」は、非欧米映画シリーズとして始まった。今回は、アニメーション特集。9月21日〜24日まで、計21本のアニメが上映された。それらは、けして「子供向け」といえるものばかりではない。

時間を作って、5本の作品を鑑賞した。

「忘れられた人形」
雪国のある家の女の子が、眠りに着く布団の中で、教室に忘れてきた(らしい)お人形のことを思い浮かべるシーンから始まる。これは、小さな子どもが喜びそうなストーリー。でも、ネズミがいなくなってしまったことに気がつく子どもはいたかな。

「キリクと魔女」
小さくても、知恵と勇気のあるキリクの冒険物語。その根底には「差別」と「迷信」を否定するテーマを含んでいるような気がする。

「岸辺のふたり」
無言のままストーリーは展開し、自転車のベルの音だけがこころに響く。彼岸と此岸のことなんだろうか

「道成寺」
怖いお話です。能を見ているのとはまた違った怖さと、哀れさを感じる

「死者の書」
原作を知らずに鑑賞。普通の人形劇とは違う動きが、リアルである。松岡正剛さんよる原著の書評

このイベントには映画監督の小栗康平さんが関わっている。『風の旅人』(26号)という雑誌で、小栗さんはこんなことを書いていた。

アニメーションは、言葉と姿とがべつべつのものとしてつくられる。それは描かれたもので「在る」ものではないから。直接的には「私」はそこには反映しない。あるのは擬人化された「私」である。擬人化されることで、私たちは現実での身動きの取れない関係をほぐされる。「私」はそうして分散される。たとえそれが人間の姿をしているとしても、である。一つの「私」ではなくて、いくつもの任意に分散された「私」の隙間に、イメージが飛翔する。
 しかしその任意の力は、イメージそのものというよりは、やはり言葉がそれを牽引しているだろうことは否めない。動画という「時間」をもった表現の、むずかしいところである。描かれたものには沈黙がない。沈黙する存在がない。もともと音をもっていないのだから。

アニメーションは、言葉無く語れるものなのだろう。