過日の強風は過ぎ、晴れ

性的違和、というものについて考えている。
自分の身体を違うものと思う、ということなのだろうか。

自分の育った環境を考えると、「女の身体」を守るための躾、みたいなものだったのかな、と思う。「たち膝するな」とか「脚を広げてすわるな」とか。
思春期のころ、「そろそろブラジャーつけなくちゃね」と言われて、妙な嫌悪感を抱いたことを覚えてる。
乳癌になって、片方を全摘出したとき、「女の命なのにね」と近所のおばさんに言われて「へ?」となった。
からだは、入れ物にすぎないと思っていた。
一般的にいう「女の喜び」というものが、なんなのかわからないけれど、妊娠がわかったとき、お腹の中に宝物を持った気持ちにはなった。不安も一緒にでは、あったが。
恋愛感情が肉体的欲求を伴ったとき、対象が異性ではなかったら、自分の身体に違和を覚えるのだろうか。
いや、そうではないな。違和を訴えてるのは、幼少期からだ。単に嗜好の問題ではないね。

手塚治虫の「リボンの騎士」を思い出す